大将というのは敬われているようで、
たえず家来に落ち度を探られているものである。
恐れられているようで、あなどられ、親しまれているようで、憎まれている。
だから大将というのは勉強しなければならないし、
礼儀をわきまえなければいけない。
いい家来をもとうと思ったら、
自分の食を減らしても家来にはひもじい思いをさせてはいけない。
家来というのは録でつないではいけないし、
油断させてもいけないし、近づけても遠ざけてもいけない。
家来はほれさせなければならない。
by徳川家康(戦国武将)
徳川家康の名言です。
昨日に引き続き、徳川家康の名言紹介です。
昨日の記事はこちらです↓
戦国三英傑と言われる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ですが、個人的に人心を掌握する術が上手かったのは、徳川家康だと思っています。
豊臣秀吉のコミュニケーション能力と「人たらし」の技術はスバ抜けたものだったでしょうが、配下から慕われたという点では徳川家康が一番だったかと思います。
現代で言えば「部下から慕われる上司」、それが徳川家康だったのではないでしょうか。
織田信長の配下は信長の果断な決断に振り回され、怒りや叱責を恐れて成果を出しました。
豊臣秀吉は相手の弱みに上手く付け込んだり、相手の利を考えた上で物事を進めるのが上手かったと思います。
配下も「秀吉さんの為に!」というよりも、秀吉に付いていた方が何かと利が多いと考えて成果を出したのだと思います。
そう考えますと、徳川家康の場合は、配下からの「殿の為に!」という言葉がよく似合います。
三方ヶ原の合戦、これは徳川家康が武田信玄に完膚なきまでに叩きのめされた戦ですが、退却時の兵は皆、「あおむけ」に倒れていたと聞きます。
退却時に背を向けて逃げていたところを切りつけられれば、うつぶせに倒れるはずですが、退却時でも家康を逃すために相手へ向かっていったという証です。
「何としても殿を」という気持ちが一兵卒にまであったのだと思います。
また関ヶ原の合戦の幕開けとなる伏見城の戦いも印象的です。
配下の鳥居元忠は、石田三成率いる西軍に真っ先に落とされると分かっていた伏見城を家康より任され、途中立ち寄った家康も、元忠とはこれが最後の別れとなることを知っており、深夜まで酒を酌んで別れたと言われています。
その際に家康は「手勢不足の為、3000ほどしか兵を置いていけない」と言うのですが、元忠は家康に「どうせ落とされる(自分たちは死ぬ)のですから、兵はもっと少なくていいです。連れていけるだけ連れて行ってください」と伝えました。
最終的には1800の兵で40000の兵を迎え撃つのですが、敵兵との一騎打ちにより元忠は落命、そして伏見城はあえなく(予想通り)落城しました。
家康に関してはこういったエピソードに事欠きません。
徳川四天王と呼ばれる酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政のそれぞれの家康とのエピソードも面白いです、が、ブログの本題から逸れますので、またの機会に。
もちろん、それらを含めて後世の創作の可能性はありますけどね。
それでも本日の名言は、人とどう関係を築くか、上の立場としてどう配下と接していくか、家康が非常に気を使っていたことがわかる言葉ではないでしょうか。
余談ですが、巷でよく言われる家康の2つの性格が「律義者」と「たぬきおやじ」です。
律義者は律義者で良いでしょう、私が言いたいのは後者の「たぬきおやじ」という評価に対してです。
たぬきおやじ、要は狡猾だということですが、この説明にはよく家康の晩年の政治手腕が例に出されます。
しかし、これとて私はどうかな?と思います。
確かに豊臣家を潰さなければという考えはあったと思いますが、多くの案は部下が発案し、実行していったのだと思います。
殿の為にという思いで先走った部下もいたのでは?と考えてしまいます。
そして勝手に進めていく部下を諫めながら狡猾な案を渋々承知した家康がいた可能性だってゼロとは言えないのではないでしょうか。
狡猾な案をさも家康が出したみたいに思われていますが、家康は既に高齢、現代でも60を過ぎた方が仕事の第一線で頼る武器は今までの知識と経験や人脈で、斬新なアイデアではありません。
真実が分からないからこそ、歴史はまた面白いですね。
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