あなたがやれる最善を尽くしたなら、
心配したって事態は良くならない。
私もいろいろなことを心配するが、
ダムからあふれる水までは心配しない。
byウォルト・ディズニー
今でこそディズニー映画やディズニーランドを知らない人はいないでしょうし、ウォルト・ディズニーを知らない人もいないでしょう。
あぁミッキーマウスの生みの親でしょ、と。
しかし、意外に皆さん知らない事実があります。
それはウォルト・ディズニーの生涯です。
ディズニーランドは夢と魔法の王国ですが、ウォルト・ディズニーの生涯を振り返れば、夢と魔法はどこへ?と言いたくなるような、いかにも人間らしい問題を抱え、波乱万丈な人生だと思わずにはいられないでしょう。
ただ、人間らしい厄介な問題を山ほど抱えた波乱万丈な人生だったからこそ、この夢と魔法の王国を築けたのかもしれませんね。
ウォルト・ディズニーは1901年にアメリカで生まれ、貧しい幼少期を過ごします。
4歳のころに、両親がミズーリ州の小さな町マーセリーンに農場を買い、一家で移住し、ウォルト・ディズニーはそこで動物に囲まれた日々を過ごし、その生活の中で絵や漫画を描くことに次第に興味を覚えていったそうです。
その後、父親は農場経営に失敗し、更に仕事を転々とし、ウォルト・ディズニーも父親の仕事を手伝う日々を過ごすのですが、絵や漫画を描きたいという気持ちだけは持ち続けていました。
やがて彼は父親の仕事手伝いではなく、漫画に関係する仕事をしたいと考え、手始めに新聞に載せる漫画を描く仕事を見付けます。
しかし、その仕事もほとんど依頼が無く断念、今度は広告デザインの仕事を始め、それも上手くいかずに断念、そして次に生涯の友人となるアブ・アイワークスとともにデザイン会社を始めるが失敗、そして生活に困窮し、稼ぐ為にアニメーターとして雇われることを選んだのでした。
ここが転機と言えば転機でした、ウォルト・ディズニーはそこでアニメーターとしての素質を開花させ、個人事務所を構えるほどになります。
しかし、ウォルト・ディズニーの作品は高く評価されていたものの、会社としての基盤が脆弱で作品作りに没頭するあまり、資金のやり繰りが乱雑になり倒産します。
倒産後の整理を終えたウォルト・ディズニーは今度こそという思いを胸に映画産業の本場であるハリウッドへ移住します。
そこで設立するのが「ディズニー・ブラザーズ社」です。
この会社が今のウォルト・ディズニー・カンパニーの始まりと言われています。
ここから次々とヒット作品を作り、会社は軌道に乗り始めます。
そしてディズニー社はユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得て、自社キャラクターとして「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案するのですが、そのシリーズがスタートと同時に大ヒットを記録し、ディズニー社は一気に躍進し、アメリカでも屈指の会社として急成長を果たします。
しかし、この「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」の著作権をめぐって争いが起こり、最終的にシリーズの配給元としての権利を奪われるという最悪の結果となります。
配給元としての権利を失うのは、簡単に言えば自社キャラクターを失ったのと等しいです(2006年になってオズワルドの諸権利はウォルト・ディズニー・カンパニーへ譲渡された)。
それだけではなく、オズワルドの権利を奪った会社はディズニー社の社員の引き抜き工作を行い、ディズニー社は大半のスタッフを失い、一気に倒産寸前まで追い込まれます。
本来であればここで諦めてしまうことでしょうが、ウォルト・ディズニーは諦めません。
起死回生の為には、オズワルドに代わる自社キャラクターが必要と考え、新たなキャラクターを登場させます。
ご存知のミッキーマウスです。
このミッキーマウスの登場でディズニー社は息を吹き返し、瞬く間に大ヒットを記録し、遂にはオズワルドの人気を抜き去り、大成功をもたらしました。
世界の誰もが知るミッキーマウスですが、ウォルト・ディズニーの波乱万丈の人生の中で生まれ、今尚この世に存在し、世界中から愛され、人気を博しているというのは、ウォルト・ディズニーの波乱万丈の偶然の産物でもあるとは思いますが、彼が諦めず自分の夢や信じる道を歩み続けてきたからこそだと思います。
本日の言葉はそんなウォルト・ディズニーの言葉です。
最善を尽くしたら、あれこれ考えても仕方ない、心配しても事態が良くなるわけではないから、心配しなくてもよいことは心配するだけ無駄だ、ということだと思います。
最善を尽くすか尽くさないかによって事態は変わると思いますが、最善を尽くした後の心配するかしないかでは事態は変わりません。
心配するというのは一種の性格からくるものやその時の感情で、無意識に湧き上がるものです。
従って心配しないようにするというのは、無理なことではあります。
ただ、この言葉を知っておくことで、何かを心配し過ぎているときに自分へ言い聞かせることも出来るはずです。
やれるだけの事をしたら、後は、心配したって事態はよくならない、と考えれば、少しは心配が抑えられるかもしれません。
個人的に、相手のある事について心配するのは、人の優しさや思いやりと思っていますので、私は良いことだと捉えていますが、自身の事や仕事の事でしたら、深く考えずに、果報は寝て待てスタイルで、悠々と構えていた方が精神的には良いのかもしれませんね。
寝て待って、もし良くない方向に事が運べば、そこからフル回転で走り出す、心配せずに待っているのは、何かあった時にフル回転で走り出すために、エンジンを温めている時間といえるかもしれません。
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