実のところ、みんなが君を傷つけるだろう。
ただ君は、傷つく価値のある誰かを見つけなければならない。
byボブ・マーリー
学生の頃にアルバイトをしていた居酒屋で、よくボブ・マーリーの曲が流れていました。
学生時代の後半で働き始め、就活や最後の夏休みや春休みも重なり、そこまで働けなかったのですが、店長がレゲエ好き(たぶん)でした。
そのお店はバーカウンターもある居酒屋という感じで、提供する料理は創作中華、そして店内にはサーフィンのドキュメンタリービデオが流れ、店内の雰囲気はバリというか南米というか、水槽には熱帯魚やウーパールーパー、そして流れている音楽はレゲエというお店でした。
いろんなお酒を置いてある店で働きたいという単純な動機でしたが、アルバイト面接で初めて店に入り、これは想像したのとだいぶ違うぞと思いながら、流されるままに働き始めたのを今でも覚えています。
ボブ・マーリーはジャマイカ出身のレゲエミュージシャンで、レゲエの先駆者とも言われ、ジャマイカ音楽を世界に広めた人物とも言われています。
独特の風貌で、マリファナ合法化支持者でもありましたので、世間のイメージは良くないかもしれません。
しかし、この言葉を聞けば印象が変わるかもしれませんし、この言葉は世間一般的な捉え方をしていると自然とは口から出ないと思いました。
それほど独特の感性で、しかも的を得ているような言葉でもあります。
この言葉は、人付き合いの捉え方も変えてくれる言葉で、はっとさせられると思います。
本来であれば、なぜ傷つけられるのか、なぜ自分は傷つくのか、傷つけられたときはどうしたら良いのか、どう考えたらよいのか、そこに着目するはずです。
今まで紹介した言葉の中にはそういうものもありました。
しかし、本日のボブ・マーリーの言葉は違います。
どうせ傷つくんだ、だったら傷つけられてもよいと思える相手から傷つけられようよ、と、傷つくことは避けられない、でも傷つけられる相手は選べる、そこを考えようよ、ということかと思います。
生きていく上で傷つけられることは不可避です。
不可避だからこそ、どうそれを捉えようかという点のみを普通は考えます、私だってそうです、そこを自分なりにうまく落とし込んで前を向いて歩いていく、それが一般的でしょう。
ただ、ボブ・マーリーのように、傷ついたという事実をどう解釈していくかではなく、誰に傷つけられたのかを考えて、それが納得できる相手か?価値のある相手か?と底を考える、逆にそれさえ考えれば、傷ついたことに対する解釈なんてひょっとしたら必要無いのかもしれませんね。
相手が傷つく価値のある人ではない場合、付き合い方を変えるなり、距離を置くなり対処すべきでしょうが、大切な人に傷つけられらたとき、この言葉は心を軽くしてくれる言葉になると思います、相手に悪気が無かったら尚更ですね。
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