過ちを改めるには、自分が間違いを犯したと自覚すれば、それでよい。
そのことをさっぱり思いすてて、ただちに一歩を踏み出すことが大事である。
過ちを犯したことを悔やんで、あれこれと取りつくろおうと心配するのは、
たとえば茶碗を割って、そのかけらを集めて合わせてみるようなもので、
何の役にも立たぬことである。
by西郷隆盛
本日のイメージ画像の上野公園の西郷隆盛像は有名です。
西郷隆盛と言えば幕末の明治維新で功績を挙げた人だと真っ先に思い浮かびますよね。
薩長同盟の立役者で、江戸幕府を倒し、明治政府設立に大きな貢献をした人物です。
しかし、明治政府の中で仲違い(細かな説明を省く為にあえて仲違いとしています)をし、地元の鹿児島へ帰り、ついには明治政府と戦う(西南戦争)のですが、敗れて自決というのが西郷隆盛の一生です。
西郷隆盛が「江戸の功臣、明治の逆臣」と言われていますが、ここで疑問に思うのは、上野公園の銅像の建設の時期です。
今では歴史上人物の銅像が至る所にありますが、上野公園の西郷隆盛像は1898年(明治31年)に建てられていますので、明治時代に明治の逆臣と言われた西郷隆盛像が建ったことになります。
逆臣は、主君に背く家臣、当時の権力者に対して反抗をした人ですので、同時代に銅像が立つのはおかしいのです、大袈裟ですが、織田信長が本能寺の変で倒れた後の豊臣秀吉の時代に明智光秀の銅像が建つようなものなのです。
もちろん、これには訳があります。
1889年(明治22年)に大日本帝国憲法の発布に伴って大赦により西郷隆盛の逆臣の汚名が解かれたのがきっかけだったんです。
薩摩藩の出身者によって建設が計画され、宮内省(朝廷・天皇家)から下賜があり、全国の有志による寄付金によって設立に至りました。
西郷隆盛の功績やどのような人物であったかという世論は巷に溢れていますが、この銅像設立までのエピソードが何より西郷隆盛の功績と人物評を表していると思います。
ポイントはもちろん、なぜ反乱(西南戦争)を起こしたのに許されたのか、死後12年で許され、死後21年には銅像設立というスピード、そして宮内省からの下賜と有志の寄付、よほど大きな功績と人格が慕われていなければ、銅像が建ったとは思えません。
私自身、西郷隆盛はあまり好きな歴史人物ではありません、というのも江戸幕府の転覆を目論むにあたって、非道と思われることも推し進めていったからです。
ただこうなってしまえば、判官贔屓に近いものですので、西郷隆盛の評価には関係ありませんね、恥ずかしながらあの時代、私はどうしても新選組の最期に情が入ってしまいます。
ここまで気付けば名言に関係のないことを書いてしまいました。
改めて本日の名言です。
西郷隆盛は、間違いを改めるには、間違えてしまったとだけ自覚すればよく、くよくよ悩む必要は無い、その間違いにいつまでも悩むことは、割った茶碗のかけらを集めて合わせるのと同じで、全く意味が無いと言っています。
割った茶碗のかけらを集めて合わせても茶碗が元通りになることはありませんよね。
かけらを集めてあれこれ悔いるよりも、どうして茶碗が割れたのか、そして今後、茶碗を割らない為にはどうしたら良いのか、それが現状から一歩踏み出すことになると思います。
人はどうしても起こってしまったことに対して悩み、後悔をして、引きずります。
引きずることに意味が無いとはわかっていながらも、なかなかそうは踏ん切りがつきません。
しかし、その引きずっているときに、これは茶碗のかけらを集めて合わせているのだと思えばどうでしょうか。
意味が無いと改めて思い知ることが出来るのではないでしょうか。
あらゆる人からリーダーとして慕われた西郷隆盛らしい言葉のような気がします。
このような言葉ですら、西郷隆盛の往年の人格が垣間見えます。
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