心しらぬ
人は何とも言はばいへ
身をも惜まじ
名をも惜まじ
by明智光秀
明智光秀の名言、辞世の句と言われていますが、これは後世の創作であるとも言われています。
しかしこの辞世の句は、謎めいた明智光秀という人物像、そして本能寺の変の謎と相まって、後の時代を生きる私たちにとっては、明智光秀という歴史上の人物に対して、気持ちを駆り立てられるものに違いありません。
さて、本日の名言。
心しらぬ 人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ
この辞世の句を現代語に訳せば、こんな感じでしょうか。
私の心を知らぬ人は、好き勝手に何とでも言うがいい
私は命を惜しまないし、名だって惜しまない
後世の創作と言われてはいますが、この辞世の句を聞いて、明智光秀の生涯のどの場面が思い起こされるでしょうか。
本能寺の変の前?
本能寺の変の後?
それともほかの場面?
私は、秀吉と戦った山崎の戦いの後かなと思います。
明智光秀側が劣勢となり、敗北が決定的となった瞬間こそこの辞世の句に相応しい場面だと思いました。
その時の場面を思いながら、この辞世の句の現代訳にあれこれと自分なりに肉付けしたいと思います。
私の心を知らぬ人や後世の人は、私のことを好き勝手に言うだろう。
謀反を起こした不忠の人物。
恩知らず。
主君を討った不届きもの。
何とでも言えばいい。
信長が生きた未来を想像できないのなら、それはそれで平和なことだ。
私は自分の信念に従って行動した。
恥ずべきことは何もない。
命なんて惜しくない。
名だって惜しくない。
信念を貫き通して死ねることに比べれば。
ちょっとカッコよく書きすぎですね。
実際の明智光秀という人物は資料も少なく、謎の部分も多いです。
徳政を敷いたという人もいれば、いやいや戦では残虐な人だよという人もいます。
それでも、歴史上の人物については、言い伝わる言動や残っている資料などから、いろいろと自分勝手に思いを巡らすことで、ロマンを感じることも出来ます。
「私の心を知らない人は、何とでも言うがいい」、この一文は心に響きますよね。
おはようございます。
本日は明智光秀の辞世の句を紹介したのですが、このタイミングで紹介したのは、お分かりの方も多いかと思います。
本日、大河ドラマ「麒麟がくる」は最終回を迎えます。
「麒麟がくる」が始まったのは2020年1月19日。
思えば、2020年1月はコロナの話題がちらほら出始めたぐらいでしたね。
そして、本日は2月7日です。
まさにコロナ禍を走り抜けた「ドラマ」と言っていいですよね。
コロナに翻弄された大河ドラマでもありました。
そういった意味でも歴史的に価値のある作品と言えるかもしれません。
この「麒麟がくる」は最初からずっと見ていたのですが、前半の盛り上がりは最高でした。
特に斎藤道三が討ち死にする前は、これぞ大河ドラマ、という感じでした。
しかし、コロナによる撮影中断やソーシャルディスタンスを踏まえたシーンや内容が影響したのか、途中から話の本筋に関係ないことを盛り過ぎて、中だるみになってしまったように思えます。
私自身、惰性で見続けているような時さえありました。
しかし、ここ数話は本能寺の変に向けて、急激に盛り上がってきました。
重ね重ね、途中の中だるみ期間がもったいないように思います。
個人的に摂津春門の辺りはもうちょっとサッとやってしまっても良かったと思います。
そして、望月東庵と駒、この辺りもモヤモヤが残ります。
結構な頻度で時間を割いていたのに、今にまで繋がっている話があまり多いとは思えません。
ただ、そんな途中の中だるみや、モヤモヤがあるにも関わらず、最終話は急激に盛り上がってきています。
今夜の最終話が楽しみです。
ブログランキングに登録してます。
応援宜しくお願いします。