はっとさせられる言葉たち

名言や言葉の紹介&雑記がベースのブログです。時折、何かの解説(カテゴリー「役立ち情報」)や旅行記などを書いていきます。

人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。

f:id:BINGO616:20201220102047j:plain

人の価値とは、その人が得たものではなく、

その人が与えたもので測られる。

byベンジャミン・ディズレーリ(政治家・作家)

 

 

 

19世紀イギリスの元首相のベンジャミン・ディズレーリ氏の名言です。

何をしたか、ではなく、何を与えたか、です。

何かをする、それ自体に大きな価値は無く、何かをしたことによって周りにどう影響を与えたか、周りをどう変えることが出来たか、そこが大切で、それが人の価値を測るものさしだということですね。

何かをして、何かを得て、自分の価値を高めようとする、これは誰しも考えることです。

でも、それは結局自分よがりの考えや思いから派生した行動であって、人の為を思った行動ではありません。

何を得るか、ではなく、何を与えるか、話が少し大げさになってしまうかもしれませんが、それは人間の美徳のような気もします。

人間には、考えたり、想像したり、信じたりする能力があります。

以前に何かの本で読んで、ちょっと記憶も曖昧なのですが、人は動物と違って、複雑なコミュニケーションも行うことが出来ます。

このコミュニケーションの元となるのが、考えたり、想像したり、信じたりする能力です。

これによって人は様々な事が出来るようになったという本の内容でした(記憶が超絶曖昧です)。

例えば、川にワニが出たとします。

人でも動物でもワニに襲われれば逃げます。

しかし、人の場合は、例えば誰かから、最近、あの川にワニが出たらしいよと聞けば、違う道を通ろうか、とか、今度そこを通るときは注意しようと思うことが出来ます。

しかし、動物は出来ません。

自分の目の前で起こったことに対しては、対処しますが、話を聞いて云々ということは出来ません。

全てが現在進行形なのです。

人は間接的に自分の得となる行動をとることが出来ますが、動物は直接的にしか自分の得となる行動も出来ません。

話が脱線しているように感じられるかもしれませんが、この間接的に自分の得となる行動が出来る人間、その人間の美徳が、与えるという行為だと思います。

この与えるという行為は、自分の得になるとは思わずに、ただ相手へ与えたい、与えようと思うこともあると思います。

でも考えてみれば、与えたい、と思った時点で、与えるということが、自分の希望を叶えるということになりますので、自分の得となっています。

そう考えれば既に、自分が何かを得るのではなく誰かに何かを与えたいという希望を持っている時点で、素晴らしいですよね。

その感情を持っているか持っていないか、それが与えたものが多い人と得たのものが多い人との違いではないでしょうか。

もちろん、誰かに与えたいという考えではなく、まわりまわって自分の得になると計算して、与えようとする人もいます。

でも、私はそれでも良いと思います。

なぜなら、人に与えるからです。

与えずに何かを得ようとばかり考えている人よりはよっぽどマシです。

それに、そういった計算高い人は案外人に気付かれやすいものです。

ただこれもよくありますよね。

まわりまわって自分の得になると考えて与えてみた、そしたら想像以上に感謝されて嬉しくなった、これもまた良い話だと思います。

 

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 名言・格言へ

ブログランキングに登録してます。

応援宜しくお願いします。