人は誰もが天才だ。
しかし、木を登る能力で魚を評価すれば、
その魚は一生、自分はバカだと思い込んで生きることになる。
byアインシュタイン(物理学者)
この言葉はアインシュタインの言葉ではないとネット上に情報が出ており、真偽のほどはわかりませんが、良い言葉だと思いましたので、紹介させていただきます。
アインシュタインの言葉は何度かブログで紹介していますね。
魚は当然のことながら、木登りは出来ません。
しかし、魚は泳ぐことが出来ます。
木登りが出来るか出来ないかで全てを決めてしまったら、魚は何も出来ない生き物と言われてしまいます。
しかし、現実には、誰も魚に木登りが出来るか出来ないかを求めていませんし、魚は木登りが出来ないから馬鹿だなんて言っている人はいません。
なぜなら、木登りが出来ることが全てでは無いからです。
これは誰しもわかっていることですが、人の生活のことに例え、仕事と例えるとどうでしょうか。
木登りが出来る出来ないで人の評価はしませんが、仕事が出来る出来ないで人の評価はしていませんでしょうか。
仕事の他にも木登りを別の事にいろいろと例えることが出来ると思いますが、仕事とするとわかりやすいかと思いましたので、本日は木登り=仕事として名言を解説していきます。
仕事は木登りとほぼ同じです。
ほぼ同じと書きましたのは、仕事の方がそれぞれの個性を活かすことで全く異なる資質の人でも同様の成果を残せる可能性がゼロでは無いからです。
一口に仕事と言っても千差万別ですが、仕事をする能力というのは、人間の能力の極一部です。
現代の仕事で言えば計数感覚やコミュニケーション能力や記憶力が必要とされますが、仕事は時代によって異なります。
数百年前は現代とは違い体力が重視されていました。
私の好きな歴史の話になって恐縮ですが、戦国時代は体力の時代だったかと思います。
もちろん、その中でも官吏として有名な石田三成や軍師の黒田官兵衛、コミュニケーション能力が抜群の豊臣秀吉等がいましたが、多くが農民でした。
この時代の農民は戦にも駆り出されましたので、雑兵や足軽の仕事もしていました。
この時代は何より体力、そして武力でしたので、体力と武力に優れた人が、仕事が出来る人でした。
しかし、今はどうでしょう。
雑兵や足軽は存在せず、農業に従事されている方も多くはありません。
農業でもトラクターや耕運機、種まき機などがあり、農業=体力(体力が全て)ではなくなっています。
現代の仕事は、戦国時代の職業で言えば、商人ではないでしょうか。
戦国時代は、雑兵や足軽、農民の仕事で人を推し量り、現代は商人の仕事で人を推し量っていると言っても過言ではありません。
言葉は悪いですが、小学校や中学校の時のドッジボールや腕相撲が強い人はスターですよね、しかし、小学校や中学校のスターが社会に出て活躍しているかと言われますと、決してそうではありません、なぜなら現代の商人の様な仕事では活かしにくい能力だからです。
しかし、戦国時代であれば、そのまま活躍されていた(ドッジボールはその時代には無かったでしょうが)と思います。
体力や力は当時の農業や戦でも重宝されたはずですから当然ですね。
現代の仕事で評価される人は、戦国時代では評価されにくい、戦国時代の仕事で評価される人は、現代では評価されにくいと思います。
従って、人を評価する際に、極一部の能力を使う仕事で、それが出来るか出来ないかで判断するのは愚策ですし、してはいけないことだと理解いただけたかと思います。
人には必ず得手不得手があります。
得手がたまたま現代の仕事にマッチせず成果をの残せなくても、その人の全てを評価する基準にはなりません。
何でも出来る人がいないのと同様に何にも出来ない人なんていないと私は思っています。
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