はっとさせられる言葉たち

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立派な人間の友情は、

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立派な人間の友情は、温かいからといって花を増やすこともなければ、寒いからといって葉を落とすこともない。

どんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固なものになっていく。

by諸葛亮孔明(三国志・蜀の軍師)

 

 

 

諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は「諸葛亮(しょかつりょう)」や「諸葛孔明(しょかつこうめい)」とも呼ばれますが、このブログでは「諸葛亮孔明」で通したいと思います。

諸葛亮孔明は中国の後漢末期である三国時代の蜀(しょく)の軍師です。

諸葛亮孔明は世に有名な三顧の礼で劉備(りゅうび)の仲間に加わったとして有名ですよね。

軍師となって劉備に数々の助言や方針を示し、三国時代として魏(ぎ)、呉(ご)と並べて語られる蜀を建国します。

劉備が亡くなった後は、劉備の子の劉禅(りゅうぜん)を丞相という立場で政治面含めてフォローし、最後は三国の中でも最大である魏への戦を五度も仕掛け、魏を翻弄しますが、勝利には至らず、最後は戦の最中に病没してしまいます。

諸葛亮孔明は赤壁の戦いでの数々の逸話もあり、天才軍師と称されることが多く、政治面でも劉備亡き後の蜀をまとめた人物でもあります。

そんな諸葛亮孔明ですので、名言をいくつか残してはいるのですが、やはり戦面や政治面の言葉が多いです。

その中で本日の名言は諸葛亮孔明の言葉でも少し珍しく、諸葛亮孔明の人柄や友情が垣間見えるものでもあったので、紹介した次第です。

軍師である政治家でもあった諸葛亮孔明が「友情」を説いているのです。

この言葉から私は往年の劉備と諸葛亮孔明との友情を思い起こしました。

諸葛亮孔明は劉備のことがとても好きだったのではないでしょうか。

劉備は力や権力を持っていなかった時代から、は数々の魅力的な人材が集まっていました。

諸葛亮孔明だけでなく、世に有名な関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、趙雲(ちょううん)等ですね。

後世の脚色もあるかと思いますが、徳の劉備とも言われ、人望のあった人物として有名です。

もちろん厳しい乱世の時代、食糧難の時代でもありましたので、人柄が良いだけでなく戦の才能や局面を正しく判断して逃げるときはさっと逃げるなど臨機応変に対応する力などはあったかと思います。

しかし、それだけではなかなか人は集まりません。

ご存じの方も多いと思いますが、劉備の最後は、三国志の英雄としてはあっけないものでした。

劉備は義兄弟の関羽を討たれた仇討ちの為、呉を責めると言い出しました。

諸葛亮孔明は、劉備に対して、今の状況で呉を責めてもこちらとしては何も得るところがない、関羽が戻ってくるわけでもないと必死に説きますが、劉備は聞き入れず、諸葛亮孔明の反対を押し切り呉へ攻め込みます。

そして、呉の火攻めに遭い、白帝城(はくていじょう)へ逃げ込み、病没します。

諸葛亮孔明からすれば、自分の反対を押し切り、ボロ負けして、当の本人は病没するのです。

もう辞めた、国へ帰ろうということも出来るはずです。

しかし、最初に申し上げた通り、諸葛亮孔明はその後、劉備の子である劉禅のサポートに徹します。

このときに劉備は、諸葛亮孔明に「俺の子が皇帝の器でないと思えば、お前が代わりにやれ」とまで言っています。

諸葛亮孔明は劉備のことが好きだったのでしょう、そう言われたものの諸葛亮孔明は劉禅を必死にサポートしていきます。

そうするしかなかったというよりも、そうしたかったのでしょう、諸葛亮孔明は。

諸葛亮孔明の最後の魏への戦は五度にもわたり、これは時に無謀であったとか愚策だったと言われます。

しかし、私は病気で死期が近いとわかっている人間がそこまで必死になって戦うとは思えません。

劉備が残した子の劉禅と蜀という国を生かす為には魏という国を自分の存命中に潰しておくしかないという決意からだったと思っています。

それもこれも劉備との友情から突き動かされた決意だと思うと、心に染みるものがありますよね。

 

 

 

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